3.11から2年 福島で日本のこれからを考える旅 2013年3月9日〜11日
2年前の3.11、東日本を襲った大地震、
それに伴う大津波そして福島第一原発の事故。
被害は人間の生命そのものにも、身体的にも精神的にも財産的にも・・
あらゆるものに及んだ。
この2年間、テレビカメラが原発や津波の被害者の姿を追う
ドキュメンタリー番組や科学者が被災地に頻繁に行き
各所で線量を計る等精力的な姿を追う科学番組を観たり、
市内で講演会があると聞きに行く等してきた。
これほど危険な原発の建設をゆるしてきた責任は大きいと気づき、
原発即時廃止の道しかないと考えるようになった。
昨年7月以降、ここ札幌でも始まった金曜日夕方の道庁前行動にも参加してきた。
機会があったら東北の被災地に行ってみたい、
特に福島にはぜひと思うようになった。
間もなく「旅システム」の福島へのツアーの案内を見てすぐに参加を申し込んだ。という次第だ。
1日目 3月9日(土)出発日
新千歳から空路仙台へ。仙台からバスツアーが始まった(40名)。
福島県の中通りの福島市へ。
途中、東京からのツアー客と合流し計160名の大所帯となった(バス計4台に)。
福島市のいいざかセンターでは、
原発事故から子供たちを守る運動の中心のお母さんから、
放射線量を常に注意しながらの生活が続いていること、
子どもたちは戸外での遊びが制限され体力低下が心配なこと、
母親の運動として県議会に18才までの子供の医療費の無料化を要求し
全会一致で議決したことなどが報告された。
また、果物農家の青年は、福島の「もも」や「あんぽ柿」は全国的にも有名だが、
線量が基準以下になっても風評被害のために値が下がり
生産しても損害が増えるばかりと訴えた。
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2日目 3月10日(日)
中通りの福島市から浜通りの相馬市へ。
その途中、飯舘村に立寄り、同村の現状、問題点を聞くことができた。
飯舘村は、福島第一原発から30q圏外であることから、
事故直後原発により近い村や町から避難民が押し寄せ、
村民は避難民の世話にあたっていた。
ところが、
約10日後に国が発表したスピーディーによると
飯舘村の線量の方が高かったことが判明。
飯舘村の村民自身こそが他に避難すべきだったのだ。
私もそのことはテレビ等で知って政府の対応は問題だと怒っていた。
その後、飯舘村内ではさらに予期せぬ事態が起こっていた。
前述のように放射能被害の地域の訂正により
村民の生命や健康が危険にさらされている状況下で、
村長が、突如それまでの原発反対の旗を降ろし村民の健康よりも
9事業所の事業を継続し村自体の存続を望むとの態度に変わっていったと
地元の方の報告があった。
村唯一の老人ホーム(我々はその建物を目の前にして説明を受けた)には
現在も75人の高齢者と多数の職員がいるとのこと。
老人たちは戸外で散歩もできない状況だ。
他に避難して戸外でゆっくり散歩をしたり手足を伸ばしたいという
最低の望みさえも叶わないのか。
残されたお年寄りの心の内はいかばかりかと。
それから、午後は相馬市に入り総合福祉センターで
子供たちらからの歓迎のご当地オリジナルの「よさこい」等に次いで
「シンポジウム2013.3.10in相双 福島再生の可能性はどこにあるか?」が開かれた。
発言者は、
池田香代子さん(翻訳家 「世界がもし100人の村だったら」の再話者で有名)、
齋藤紀(おさむ)さん(地元福島の生協病院の医師)、
清水修二さん(福島大学教授)で、
池田、清水の両氏は60代半ばだが、高校時代の同級生とのこと親近感がわいた。
このシンポで、清水教授が双葉町の復興案で提起したという次の指針の中に、
福島復興のカギがあるように思った。
1は「選択」
2は「自立」
3は「調整」
少し詳述すると、それぞれの内容はこうだ。
1は「住民が他の地に住むか帰還するか、選ぶのは住民の意志によるべき。それを自治体が保証すべき。」
2は「賠償を得ることは必要だが、その賠償は今後の自立に向けることに主眼が置かれるものでありたい」
3は「住民間の調整も必要、市町村間(自治体間)の調整も必要」
3日目 3月11日(月)
まさに3.11当日だ。私たちのバスは、福島第一原発の北側にある
一番近い「市」である「南相馬市」に入った。
この市は、平成の大合併で生まれた市で
「旧鹿島町」「旧原町」「旧小高市」から成っていて、
北隣の似た地名の「相馬市」の3倍近い面積だ。
この日、私たちは市の南端の「小高区」と浪江町との境界にある
「希望の牧場」に行った。
そこには、茶色の牛たち330頭が飼われ広い牧場に放牧されている。
牛たちは足元にはえている枯草やロールから解かれた草を食んでいる。
のんびりとゆったりと。に見えるが、
なぜか悲しげな姿に映るのは私だけだったろうか。
牧場の案内の男性の言葉をみんなは静かに聞いていた。
この牧場は、たとえ放射能で痛めつけられようとも、
ここにいるすべての牛たちを寿命が尽きる時まで
生かせてあげようとの思いで始めたとのこと。
その時、前日行った飯舘村で牛の殺処分の指示を受け
原発事故に抗議して自殺した酪農家のことを思い出していた。
彼らの運動に共鳴して、自分の牛を救いたいので預けたいと言う人、
援助したいと手を挙げる人が全国的にも増えているとか。
牧場運営の資金も、労働提供のボランティアもその他
たくさんの援助が必要ですと牧場ガイドの男性は訴える。
そのそばを20代と思われる女性たちが
重機(だろうか)を乗り回して労働に励んでいる。
この地区も、昼間の滞在は許されるが、
夜間宿泊は認められない、そんな過酷な地域なのだ。
最後に、南相馬市の市街地に戻り追悼式典の会場に行き、
入り口付近で「記帳」をし、被害の時刻午後2時46分に合わせて
会場の外で黙とうをして、南相馬を後にして仙台空港に向かった。
3日間という短い旅だったけれど、
福島の人たちが未だ大変な状況におかれている現実を改めて知り、
そして責任を自覚しない為政者への怒りをぶつける勇気ある人々や
福島を訪ねたことに感謝する優しい人たちの存在を知り、
私もそんな人間でありたいと強く思った旅であった。
札幌市東区 横 倉 友 子