長野平和と文化の旅に参加して 2017年9月30日(土)〜10月2日(月)
9月30日(土)から10月2日(月)の3日間、見事な秋晴れに恵まれ、信州の高く美しい山々と清流に心洗われて、大変有意義で、患考を深め、心豊かに充実した時を過ごすことができました。
この春沖縄の辺野古・高江の座り込みに一人で出かけ、あまりの治外法権状態に怒り心頭で戻って来た時、札幌で三上智恵監督の講演会があり、そこで旅システムの平和と教育を考えるスタデイツアーを初めて知りました。その中に長年訪れたいと切望していた無言館・信濃デッサン館見学がありました。その他原田泰治美術館、安曇野ちひろ美術館、らいてうの家訪問、その上窪島さんのお話に天満敦子さんのコンサート、米田佐代子さんのお話と、この上もない素嗜らしい企画で、一人では移動や交渉が難しい場所であったので、すぐに申し込みました。そして期待以上の貴重なものにたくさん触れ、経験し、持ち帰ることができたことを、関係者の皆様に心より感謝致します。
一日目に訪れた「原田泰治美術館」は、まさに諏訪湖のほとりにあり、湖に抱かれているような優しさを感じました。泰治さんの絵は子どもの頃からよく目にし、北海道とは異なる里山の原風景を現地の信州の自然の中で、そして泰治さんの原画で実感できました。北海道の湖は、人里離れ出や原野にあるのに、諏訪湖が町と人々と一体化しているのが、とても新鮮で親しみを感じました。泰治さんが体の不自由な方に配慮しているという優しさが、彼の作品だけでなく、館内全体から漂いました。特に、私は目の不自由な方の伴走をしているので、立体的で点字の説明がある作品にとても興味がわきました。でも、期待していた泰治さんの絵が思ったより少なくて、初期の頃から現在までの彼の作品を系統的に見たかったので、ちょっと残念でした。そして走るのが趣味の私は、湖畔を気持ちよさそうに走っている地元のランナー達を車窓から見て、一緒に走りたくなりました。
二日目の午前中は、「安曇野ちひろ美術館」を訪れました。美術館のある広大な公園には、湧き水が流れ、巨大な古木と清楚な野の花々が咲き、日本アルプスの秀峰を眺めながら散策し、この上もなく幸せな気持ちになりました。
実のところ、私は以前は、いわさきちひろさんの絵は甘すぎると感じてあまり興味はありませんでした。数年前、寝たきりの母の介護をしていた時、母の日に、ちひろさんの母に抱かれ赤いカーネーションを持つ幼子の絵「母の日」(1972年)を偶然見たのです。その絵を見た時、私の両親の深い愛情を改めて思い、ちひろさんの深い人間愛を感じたのです。今回ちひろさんの原画に接して、彼女の人間、特に子どもたちに対する慈しみを強く感じると共に、彼女の画家としてのデッサンカの確かさと色使いの素晴らしさに驚きました。特に誕生したばかりの吾子を鉛筆の線一本で描いたデッサン画には、鳥肌が立つほど心動かされました。ちひろさんが、幅広い教養や知識を身につけ、戦後職業婦人として頑張り、戦中の反省から反戦平和を貫いたことがよく分かりました。そして色々なスポーツを楽しんでいたことや、晩年実母と義母を同時に自宅で介護していたことなど、個人的にとても身近に感じました。
午後は、今回一番の目的である「無言館・信濃デソサン館」の見学でした。館主の窪島誠一郎さんの箸書は何冊か読んでおり、設立当時からずっと訪れたかった場所でした。やっと念瀬が叶いました。無書館に一歩足を踏み入れたとたん、すべての作品から息遣いが伝わってきました。絵から彫刻から手紙からそして解説から、若い芸術家の情熱やかれらと家族の悲しみと無念と愛情が強く私の胸を締め付け、しぜんと涙が出てきました。沖縄のガマや強制連行の場所で感じたように、戦争の愚かさと理不尽と残酷さが、鋭く身体を貫きました。ぜひ安倍ら歴史修正主義者や武器商人に見せたいと思いましたが、かれらには、人の命や悲しみについて感じる心は持っていないでしょう。でも、ぜひ修学旅行で多くの若い人たちには見てもらいたいと思いました。そして、戦争をする国へ急速に回帰しようとしている現政権を絶対に許してはならない、声を上げ、行動していかなければと改めて強く強く思いました.
私は、デッサン館の村山槐多の「尿する裸像」をずっと以前に見て、強烈な印象を持っていたのですが、地底から爆発するような圧倒的な生命力をまじかに見て、今回もしばし釘付け状態となりました。なぜこんなにこの絵に惹きつけられるのかその訳が、その後の窪島さんのお話でやっと分かりました。私の好きな画家の一人の萬鉄五郎が、槐多に影響を与えていたのでした。槐多の絵を堪能した後、対照的で静温な日系画家野間英男の絵に惹きつけられました。絶筆となった、閉じてしまう目を絆創膏で貼って描いたという信州の野の花の前らかさに圧倒され、いつまでも立ち去り難い気持ちになりました。
館主の窪島誠一郎さんのお話を直接聞くのは初めてでしたが、これまで読んだ著書や無言館デッサン館の作品と一緒になって、あたたかくなつかしい気持ちになりました。窪島さんは、これまでの人生の転機となるいくつかの出会いにっいて語っていらっしゃいましたが、私自身も今回の旅は、転機と慰霊の意味もあったのです。それは、父の三周忌と母の一周忌を迎え、戦争で無念のまま亡くなった方々と両親への慰霊と反戦平和の思いを伝えたかったからです。
夜、月明かりの無言館で、天満敦子さんの奏でる美しいバイオリンの音と美術家たちと作品からの無言の声と鳴咽、そして虫たちの哨き声がハーモニーとなって、本当に至縞の演炎会でした。この幸せを、今この時間も枇争や飢え、差別・病気等で苦しんでいる人々に、お裾分けすることができたらと強く願わずにはいられませんでした。
三日目は、山深く登って、「らいてうの家」を訪れました。館主の米田佐代子さんのお話が実に素晴らしく、講義のように一日中受けてみたいと思いました。まさに今の政治混乱の時こそ、らいてうの平和思想が大切であり、らいてうの時代からあまり変化していない日本の女性の立場がよく分かりました。稲田や小池らが、偽者のフェミニスト政治屋だと断罪してくれて気持ちがよかったです。実は、米田さんに質問したいことがあったのです。それは、凡人で静通の普通の市民である私が、反戦平和や人権問題、民主主義を守るために日々暮らしの中できることは何かと聞いてみたかったのです。これは、私が長い間悩み、考え続けていることです。本や講演会等で学び事実を知る、集会やデモに参加する、現地へ行って話を聞き周りの人に伝える、できる範囲で寄付やボランティアや手伝いをする等〜これでいいのでしょうかと… これからも自分に問いかけながら、微力ですが、学び、声を上げ、行動していきたいと思います。
大変充実した旅を準備してくださった、旅システム、平和婦人会、窪島会の皆様、そして添乗員の青木さん、観光バスのドライバー大木さん・ガイド青木さん、お世話になったすべての方々に心から感謝し、御礼申し上げます。
菊池 園子
向き合わなければならないと思っていた「戦没画学生の絵画」
無言館、いつかは訪れて、そこにある戦没画学生の残した絵画に向き合わなければならない、と思っていたのです。あの忌まわしい大戦によって画家への夢を絶たれた100名を超す遺作や遣品が展示されており、作品には館主である窪島さんの説明が簡潔に添えられてあり、作品を通じでまるで画学生がそこにいるような錯覚さえ感じるのです。
初秋の信州上田、塩田平の丘を登ると息が切れそうになる辺りにその建物は厳かななかにも周囲に溶け込むように佇んでいた。坂道の途中に「自問坂」と書かれた小さな丸い石が隠れるように置かれている。その夜、バイオリニストの天満敦子さんのコンサートを聴くために再び自問坂をムゴンで画学生や画家を目指していたことがあり、二度も北支に召集された私の父親(幸い生還できたが30年前に鬼籍に入る)のことを考えたりしながら無言館に向かった。
天満さんの魂のこもった弦の音色に鳥肌がたちました。画学生に捧げる演奏とのことで圧巻というしかありません。立ち上がることもできない位でした。
信濃デッサン館ではホンモノの村山槐多、関根正二、野田英夫達の絵画やデッサンにふれ、 槐多庵では館主の窪島さんからレクチャーがあり、心ゆくまで無言館に浸ることが出来、帰りはすっかりムゴンになってしまいました。
女性解放運動家「らいてうの家」
旅の最後は菅平高原にある「らいてうの家」を訪ねた。自然がいっぱいで緑のシャワーが盗れる中にありました。私の中のらいてうは「原始女性は太陽であった」との女性解放運動のパイオニア的な存在でした。米田佐代子館長は80歳代とは思えぬ熱い情熱と芯のある方でとてもお元気で私のほうが励まされました。らいてうは自分の考えや行動を試行錯誤し、迷いや葛藤を繰り返した。
思想家、運動家そして家庭人でもあったのです。とはいえ女性に参政権もなかった100年以上前から続けて来られ現在の女性の地位向上に、「らいてうの家」にと繋がっているのですから物凄いことなのです。自由や民主主義を守るということはその先達がいるのです。未来を語る事は歴史を知ることが大切、とつくづく感じました。機会があったらまた訪れたいところです。
原田泰治美術館、ちひろ美術館、そして「山宣碑」
諏訪湖のほとりにある「原田泰治美術館」は心が優しくなれすっかり癒されました。「安曇野いわさきちひろ美術館」もゆっくりと鑑賞ができました。
旅行中は晴天に恵まれどこまでも広い北アルプスの下で巡った美術館があるべきところにあることが良く理解でき「平和と文化の旅」ならばの企画で参加できたことは幸せなことでした。別所温泉の丘に「山宣碑」があり旅シスデムの青木さんが案内してくれ詣でる事ができました。
平和な社会を子どもの代に繋げていくのは私たちの責任であることも学んだ旅でした。
碑の会 奥野 寿美子