劉連仁生還記念碑建立十周年記念 当別ツアー(2012年9月2日)
劉連仁さんは、1944年9月のある朝、中国山東省高蜜県草泊という村で、突然日本軍に襲われ拉致されました。結婚して七ヶ月、身重だった妻の趙玉蘭(チャオユイラン)は、知り合いの家に行くと言って出掛けたまま帰って来ない夫を、その後息子と共に13年間待ち続けるのです。
連行されて行き着いた先は、雨竜郡沼田町の明治鉱業昭和鉱業所。
10月末の雪降る厳寒の中、彼らは裸で入坑させられました。丸太や鞭で殴られるとそこに炭塵が入り、刺青のようになって腫れ上がる。ぼろきれのような衣服に、粗末な食べ物。翌年の七月、耐え切れなくなった劉さんは、仲間四人と脱走します。翌年と翌々年、四人は発見され連れ戻されますが、劉さんは一九五八年二月八目、当別町材木沢の商店主袴田清治さんに発見保護されるまで、山野を逃げ回りました。
冬はマイナス30度を下回る日もある寒さ、夏は猛烈なブヨや薮蚊に襲われての逃避を続けたのです。
当別派出所署員等によって保護された劉さんは、当別町民、民主団体、札幌華僑総会の支援を得て帰国。妻子と再会を果たしました。
2002年9月1日、105団体1235人の町民等の「二度と起こしてはいけない戦争、そして拉致・強制連行」の願いを込めた資金543万円によって、生還記念碑が建てられました。記念碑は彫刻家で北海道教育大学助教授、丸山隆氏(建立直前に故人)によるもので、碑は当別市街地から7キロ入った山道から、山に分け入ったところに穴を掘り、息を潜めて過ごした穴倉をイメージしたもので、劉さんの心境がひしひしと伝わってくるものがありました。
この度、旅システムさんと日本中国友好協会の共同企画で行われた「劉連仁生還碑建立十周年記念当別ツアー」は、記念碑建立から、ちょうど十年と一日目にあたりました。参加者は札幌、苫小牧、釧路など各地から参加され、最も遠い群馬から参加された加藤由紀子さんが代表して献花。全員で黙祷を捧げました。その後、「劉連仁生還記念碑を伝える会」の大沢勉会長代行から、発見・保護そして生還碑建立に至るまでの経緯が話されました。
碑を囲んで記念撮影した後、町内会館で交流会が開かれ、「伝える会」の三上勝夫会長が、劉さんが拉致されてから救出されるまでを詳細に話されました。会場では採れたての真っ赤なトマトと西瓜がもてなされ、和やかな歓談が続きました。
午後から、当別町の開拓の基礎を築いた仙台藩一門岩出山領主、伊達邦直邸別館と記念館を見学。そしてプロレタリア作家本庄睦男の「石狩川」の文学碑を巡りました。
話はそれますが、今年のノーベル文学賞を受賞した、現代中国を代表する作家の莫言氏は、山東省高蜜県の生まれ。劉連仁さんと同じ故郷です。生前の劉さんから逃避行の苦難を聞いていたそうです。
彼は2004年末、札幌市と北海道新聞社の招きで北海道を取材旅行した際、劉連仁生還記念碑に立ち寄り「劉連仁の北海道での日々は悪夢だったが、戦争による劉連仁の伝説は友好の象徴に変わった」と語り、劉さんを救出した袴田清治さん(2009年死去)に感謝の言葉を伝えました。そして「戦争が庶民の運命を狂わせた一方、日中両国の庶民の友情は時間や歴史に妨げられるものではない」と語ったそうです。(北海道新聞枝幸支局長・佐々木学氏の記事引用)
来年、劉連仁さんの生誕百年にあたります。「中国人戦争被害者の要求を実現する会」のニュースによると、日中共同による「春季劉連仁墓前祭」が計画の運びとなっているそうです。