小林多喜二国際シンポジウム(2012年2月20日〜21日)
私の読んでいる新聞に、毎年2月20日・小樽の小林多喜二の墓前祭の様子が、時にはひっそりと時には多数の参列者で行われたと、いつも載っていた。あぁ一度お墓参りがしたい。新聞の記事を読むたびに、そう思っていた。しかし、その願いが今年かなったのだ。旅システムさんがツアーを企画し、私のところにも案内が届いた。小樽商大百周年記念事業の一つとして、小林多喜二国際シンポジウムを開くというのだ。
勿論墓前祭りも、函館の介護施設に世話になっている私の母も今は元気、参加できる。その日のうちに申し込んだ。
墓前祭りからシンポジウム、まるごと4日間多喜二に向き合おう、そう思った。
初日、札幌を出発したバスが向かったのは、小樽築港駅の横、ガイドで同乗していた、旅システムの社長が、スコップを持って降りた。何をするのだろう?そう思って私たちは後に続いて降りた。一生懸命雪をどかしたあとに、多喜二が住んでいた旧若竹町の住居跡の石碑があった。ここにも住んでいたんだ!不思議な懐かしさが込み上げてきた。そのあと、多喜二ゆかりの場所をまわり、小樽文学館にも立ち寄ることができた。
多喜二コーナーにはデスマスク、築地署で虐殺されて戻ってきた多喜二を取り囲んでいる人たちの写真、そして、お母さんの「あ−またこの二月の月がきた、ほんとうにこの二月とゆ月がいやな月−」と書いた文章など、改めてくやしさと無念の思いが体中をかけめぐった。
そのあと、墓前祭に向かった。小高い丘に墓地はあった。すでに何人かの人が、少し滑る雪道を気をつけながら、上っていた。道をつけてくれた人たちに感謝しながら私たちも続いた。
何人かの係りの人たちの中に、琴坂元小樽市議の顔も見えた。お元気そうですね。声をかけた。私はお世話になったことがあるのだ。多分彼女は覚えてはいないと思いながら。あとで知ったことだが夫さんの琴坂守尚さんは小樽での多喜二研究の第一人者とか、そしてごくごく最近亡くなられたことも。
墓前祭りには用意していただいた赤いカーネーションがみんなの手でたむけられた。多喜二は赤いカーネーションが好きだったそうです。そして函館から参加した4人の女性の美しいコーラスもそえられた。あまりにも素敵な声で、きっと多喜二に届いたと思った。
その夜、ホテル・ノルドで歓迎レセプションが行われた。国内外からシカゴ大学教授ノーマ・フィールドさんを始め、ノルウェー・スペイン・フランス・イタリア・アメリカ・中国・韓国などからの研究者・翻訳者が紹介された。勿論日本の研究者も。
2日目いよいよシンポジウムが始まった。言うまでもないが、外国の方達はすべて、日本語での研究報告であった。こっそりと電子辞書を持ち込んだ自分に苦笑した。
理解できたり出来なかったり、しかし私はまるごと受け止めようと必至だった。
朝9時から夕方4時半ころまでお昼は急いで学食でとり休みを利用して商大の荻野先生の案内で図書室へ。そこには多喜二と1級下の文学者伊藤整のふたりの通信簿もあったり、興味深いものがたくさんあった。
この日は夜、小樽市民センターで「小林多喜二を21世紀に考える意味」と題してノーマ・フイールドさんの記念講演があった。
それとともに、各国の母国語であの「蟹工船」の出だしの一節「おい地獄さ行ぐんだで!」の朗読があった。皆さんの真剣さが心を打った。
3日目、天気がよかったので多喜二も歩いたという地獄坂を歩いてみた。駅前ホテルから約30分、冬道の坂はきつかった。
初日にいただいたA4約300頁の予稿集も重かった。
4日目、午前中はまとめ、そして多喜二に深く関わってきた何人かに、最後に司会者が問いかけた。みなさんの思いがそれぞれ語られた。中でも松澤名誉教授の泪は忘れられない。
4日間をとおして考えさせられたのは、あの多喜二の不幸な時代と今、たしかに時代は変わった。しかし、本当の民主主義は、働く人の権利は、平和は、かちとられたろうか。決してそうではないということ。多喜二が命をかけて求めたものを、まだ背負っていることを忘れてはならないということだった。
登別市 花井泰子