平和と教育を考えるツアー連絡会  
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平和の旅レポート
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「8年目の福島の旅」に参加して  2019年3月9日(土)〜11日(月)

 

2012年の夏休みに被災地でボランテイアができないか探し陸前高田の社会福祉協議会の受け入れを見つけ宿泊先を探し、交通手段は夫が手配しレンタカーを借りた。子供に呼びかけ東京から娘が参加し盛岡駅で合流し生々しい現地で草刈をさせてもらい自然災害の脅威を共有した。さらに原発事故の実相を学びたく2014年3月に参加。強く印象に残っていることは、全村避難区域の誰もいない静まり返った地域、フレコンパックの山々がいたるところにあり、異様な黒と灰色の景色であった。
そして、被爆した家畜を生業としている方の「家族同然の牛を殺すことはできない。最期までここで一緒に暮し看取るのだ」という決意。また、吹奏楽クラブの高校生を支援し続ける伊勢崎賢治さんたちの存在を知り、「こういう支援の姿もあるんだ」となぜかほっとした。
8年目:2回目の参加
まだ約52000人の避難生活の方々がいる8年目。
まだ、0,23マイクロシーベルト(これ以下で生活すると定めた世界基準)以上の区域がある。バスの中から放射線測定器で測定しながら原発20km圏内の中間貯蔵地域を視察。黒いフレコンパックを集め緑の覆いをし、視察の人に悪い印象をもたれないようにしているのか。オリンピックまでに少しでも見えないように急ピッチで作業をしていると思う。30年間の中間貯蔵施設。これでは帰りたくても帰れない。
暗い気持ちになる。そんな中で、闘う人々に出会えた。
全村避難から帰村2年目の飯舘村(まだ村民の2割の帰村―3/1現在)のみなさん
手打ちそば「愚真会」「かあさんの力」のいか人参をごちそうになった。福島の現状をリアルに伝えてきたテレビマンの大森真さんが村職員に転職したいきさつを池田香代子(ドイツ文学者)さんとの対談で聞き出していただき、マスメデアの内部(裏)事情を知り「国民に受ける報道」ではなく「現地の人が何を国民に知ってほしいのか」マスコミ人として現場に入り、報道することに頑張っている方を知った。
ふくしま農業再生の会(再生を目指す若者三浦さん)との交流
福島のみなさんは地震被害・津波被害・風評被害の3つを受けている。
自然災害は、みんなの努力と支援で、畑のがれきを取り除き、塩害を取り除き、有機物の土を作り、種をまき、1年目は芽を出し、2年目は穂になり、3年目で収穫ができ、全件放射能検査をし、安全を確認し、出荷までこぎつけた。しかし、風評被害で売れない。売れても、買いたたかれる。と語る24歳で震災・原発から10kmのところから千葉に逃れた。だんだん福島を忘れていく自分。これでいいのかと福島に戻り、農業ができるところを探し会社(みさき未来)を設立し、農業開始。
それでも将来の希望は、50町歩をIT化して「楽しく農業をしたいー楽農です」と。地域に人を呼び、「福島の作物は安全です」と実際を見て知ってもらい、共感を呼び、ファンを増やしていく、そこから広げていきたいと熱く語る姿が力強く、頼もしい青年に出会えた。そこまで頑張るのは「残るは意地が90%ですね」と笑顔でした。農民連とも連携しながら販路を広げることに協力はできないものか?

もう一人「明るく頑張るのは意地ですね」と語るのは「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ」福島原発訴訟原告団長中村孝さん。東京電力と国を相手取り、7年目には原告3824人で闘い中。事故直後県外に避難した人は「自分の行動は正しかったのか」と語る「経済的困難」「子供がいじめに合う」と。現地に残った人は「認知症の母親は地元を離れることをかたくなに拒んだ。そして残り、当時1歳の孫を被ばくさせた」と。
避難した人も残った人もなんでこんな目に合わなければならないのかと心が痛い。
今回のゲスト、脱原発の国リトアニアから大学生ミルダさん(19歳)が福島の実態を学ぼうと参加。リトアニアは福島の事故を受け日立GE製原発建設を国民投票で6割以上が反対し脱原発を選択した。心強い若者がここにもいた。つらい旅も少し希望をもって帰路についた。企画をしていただき本当にありがとうございました。また、会いましょう。


  

勤医協東在宅センター:玉井三枝子