『中国歴史と文化の旅』に参加して 2017年12月14日〜19日
南京、上海の歴史をさかのぼる旅
1 盧溝橋事件1937年(昭和 以下S 12)以降、日中戦争80年を節目に中国では南京大逆殺記念館がリニューアルされ再開しました。記念館はすでに2015年、世界記憶遺産に登録されています。この記念館と合わせて従軍慰安婦などの博物館を訪問する、日中友好協会北海道支部の企画(2017/12/14〜19)に参加させてもらいました。私事ですが、上海は私の両親が1939年(S14)に国鉄から華中鉄道に転勤し、兄二人はそこで生まれ、5年ほど暮らした所です。1945年(S20)に満鉄に異動となり新京(長春)に転居しましたが、父は6月には現地召集され8月9日ソ満国境に向かう行軍で戦没したのです。そんなわが家の歴史があり、私はいつか足跡を確かめたかった場所でした。
2 日本の靖国派はこの記念館や博物館を非難攻撃しています。しかしこれらの施設は歴史的事実を明らかにし、永く記憶に止めることが目的です。偏狭なナショナリズムや憎しみの増幅のためではなく,反戦と平和を求める為に作られたのです。新しい記念館は長大な黒い蝶形の切妻型の屋根と白壁の長三角形の建物で、前庭の水辺には遭難者の彫像が何体も立像されており厳粛で鎮魂の空間でした。
当時の日本軍の作戦は中国側からは三光作戦といわれ、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」ものでした。新進の芥川賞作家の石川達三が南京大虐殺の2週間後、中央公論社特派員として戦地に入り「生きてゐる兵隊」を書きましたが、そこに描かれた戦争のありさまがあまりにも苛烈であったために、1938年発表と同時に発禁処分にされてしまったのです。
この三光作戦では、なんと中国のある大学の蔵書82万冊の知的財産を強奪していました。この数は当時の上野の国立博物館の蔵書80万冊を上回りました。また別の大学でも20万冊を没収していました。知的財産まで「奪いつくした」事実に驚きました。
この記念館建設工事中に、近くの湖沼に投げ込まれた大量の遺骨が発見され、いまでも確認された犠牲者数は増えています。遭難者には殺された人以外にも重篤な障害を受け辛くも生き延びた人々も含まれており、やはり30万人以上に及ぶ事がはっきりしています。ここでは累々たる屍(しかばね)の山が築かれた写真だけではなく、今まさに銃剣で刺殺されている生身の人間の姿や、日本刀を振りかざして斬首する瞬間の凄惨な写真もあり、衝撃的で見るに耐えません。膨大な犠牲者名簿やこうした証拠写真は、間違った伝聞や歪曲された本による偏見を完膚なきまでに打ち崩してしまうと思います。だから靖国派は、正視できず、文字通り「目をつむる」しかないのでしょう。
展示物からは、人殺しや強奪はあたり前で、道徳的規範はすべてかなぐり捨てられています。神もなければ仏もない。だから地獄もないーという血生臭いニヒリズムのルツボです。殺した方も殺された方も同じ庶民であり、戦争がなければ、また排外主義的な皇国思想に洗脳されなければ普通の良き家庭人だったかもしれません。しかしそのような普通の人が立場と状況が変われば平然と人殺しをするように人間を豹変させてしまう、戦争の恐ろしさを思い知らされます。決して一時の狂気の沙汰ではなく、まさしく正気の行状でした。辛くも生還した日本兵は家族にも言えない心の闇を封印し、生涯隠匿したのだと思います。明からさまになれば社会的な糾弾を免れえなかったからです。
3 南京大虐殺記念館の分館である南京利済巷慰安所旧跡陳列館も見学し従軍慰安婦の史実の研究成果を見学しました。陳列館の壁には慰安婦にされた多くの人たちの遺影が一面に掲げられていました。中庭にはブロンズの慰安婦像も置かれていました。一人の妊婦の慰安婦が寄りかかっている姿で、その周りを心配そうに慰安婦達が取り巻いている群像でした。実は、この人はその後決死の覚悟で慰安所を脱走し、安全なところで男児を出生したのです。子供は成長するにつれ、自分の出生の秘密を知ることになり、「どうして生んだのだ!どうして殺してくれなかったのだ!」と母親を難詰し、絶望的な苦悩にさいなまれたのです。この悲劇は後に映画化されたそうです。
従軍慰安婦制は日本軍において広範に組織され、中国全土で20省と市に設置され慰安婦は20万人に及んだことが判明しており、世界に類例を見ない規模の施設だったのです。第一次上海事変の時、海軍によって上海に初めて設置され、その後陸軍によって拡大、増設されて上海市内だけで76か所に及びました。これは当時の公娼制度とは異なり軍と軍属専用の慰安組織でした。朝鮮人8割、その他の外国人や中国人が2割でしたが、40歳までの女性を募集だけでは集まらず、騙したり誘拐したりしてかき集めていました。東南アジアに戦争が拡大されるとそこにも設置されました。軍司令部が施設管理をしており、衛兵が常駐し、脱走ができないようにしていました。しかし慰安婦には対価の支給はなく性奴隷状態でした。
南京の慰安所跡に開館された陳列館の見学では、施設管理者とツアー一行との様々な質疑が交わされました。「一体何のために慰安所を作ったと考えますか?」という問いに施設の方は「戦闘力の維持強化のためです。すべてをこのために利用したのです」と答えました。皇軍は野獣の欲望をむき出しにしていたのです。
慰安婦問題に対して1993年河野官房長官談話で謝罪と責任を認めましたが、靖国派は「強制連行はねつ造だった」「閣議決定でないから正式見解ではない」などと言って見直しを主張し、その意を受けて安倍首相は「談話は継承している」と対外的には取り繕いながら、歴史的事実に向き合わないで常に目をそらし続けています。上海の「中国慰安婦歴史博物館」によれば、戦後、日本の高裁判決では日本政府の見解を受けて、オランダ人女性の1件を除いて、慰安婦の訴えを全て否決、却下しており、高齢の原告が死亡するのを待っているという状況です。
これは大日本帝国の決して許されない人道にもとる罪悪であるだけでなく、これを隠ぺいし続ける戦後の日本政府の態度もまた無責任の上塗りであり、日本国民の矜持を著しく傷つけていると思います。恥ずべき事実を潔く認め、深く謝罪すれば、被害者も救われるし、日本の信義も蘇り、その再出発が称賛される国になったのではないかと考えます。日本は未だに戦争の歴史をきちんと総括しないで現在まで引きずっています。ここに戦争が決して過去のものではなく現在につながっている原因があるのです。
4 南京にある民間の抗日戦争博物館も見学しました。所長の呉さんが莫大な私財を投じて戦争の遺品から日本の靖国派の書籍も含む膨大な書籍を収集し、展示しています。維持費だけでも年間200万元(3000万円)にもなるそうです。戦後の生まれで50歳ぐらいの事業家です。「戦争には国だけでなく民間人の歴史もあるのだから、民間の視点から平和のためにこの事業を行っている」「自分は反日ではなく、日本は好きな国なのだ」とも言っていたのが印象的でした。後でわかったことですが、古代、聖徳太子のころ、小野妹子を派遣したのは中国の江南の地、今の上海と南京地方でした。文化交流のルーツはここにあったのです。仏教伝来もここからでした。陶淵明の田園詩や王義之の書道などは今でも日本人に親しまれています。そこから伝えられた漢字の音読は呉音と呼ばれ、後に唐の時代に漢音が伝わり、その結果今でも漢字の音読には二通りあります。文化的には極めて関係の深い国同士だったのです。
南京から新幹線で1時間半かけて上海に到着しました。そこで魯迅の記念館を見学しました。若い時代の魯迅は仙台の医学校に留学中の時に、中国人が公開処刑されるのを同胞が面白半分に見ていたのに衝撃を受けたのです。祖国の置かれた現状に対する、同胞たちの救い難い無知と無関心を啓発しなければならないと決意しました。そして医師になるのをやめ、作家になり、阿Q正伝を書き、眠れる獅子だった中国の民衆が覚醒するよう促し、民族革命の道を切り開く礎(いしずえ)を築いたのです。中国人にとっていまだになお大変尊敬されている所以です。
5 第2次上海事変で1937/10/26〜11/1まで日中の最後の激しい戦闘が行われた四行倉庫(しこうそうこ)を見学しました。これは金融機関の倉庫で頑丈にできており、上海にある欧米の共同租界地の蘇州河対岸に位置しており、日本人居留地の近くでした。ここでの戦闘は、日本軍は艦砲射撃では共同租界地に被害が及ぶことを恐れ、白兵戦になりました。国民党軍の持久戦で南京政府の脱出を確保したのです。
ここから川下に行けば、黄浦江の河口にある外灘(バンド)にかかるガーデンブリッジがあり、向こう岸には今をときめく上海タワーなどの超高層ビル街が見えます。
ディク・ミネが歌った上海ブルース「〜ガーデンブリッジ 誰と見る 青い月 甘く悲しいブルースに〜」は1938年の流行でした。両親がこの地に赴任した時は1939年、既に大きな戦闘はなくなっていた時期でした。大きな公園もあり近くの租借地には欧米列強の立派な建造物があり今も保存されています。リラの花とプラタナスの街路樹が生い茂っている美しい都市だったと想像できました。我が家にある上海時代の写真には、レンガ造りの家の前で長男をあやす祖母の姿があり、戦争の影はうかがえません。しかし歴史は確実に破たんに向かっていたのです。
6 南京、上海とその生々しい惨状に事実を見ながら、これらの歴史を現代の目からではなく、その置かれた歴史の中で観る必要があると思いました。なぜならばそこを通して、私たち自身が現在の日本を問い直すことができると思ったからです。当時の歴史を簡単に振り返っておきます。
1925年(T14)。治安維持法は勅令で最高刑が死刑に強化され、天皇制国家を批判する者には徹底的な弾圧ができる時代になり、後に予防拘束法が付加されて特高警察が恣意的に弾圧するようになりました。
1931年(S6)9月18日。柳条湖事件、関東軍による満州事変。
1932年(S7)、5.15事件。経済恐慌で困窮化した農村の窮状に無策な政治体制を打破しようとクーデターが起こり、これを梃に軍部の政治支配が進み政党政治は終りました。
1936年(S11)、2.26事件。「昭和維新」を掲げた、陸軍の皇道派によるクーデターが起き、これを戒厳令司令部が「勅令」を得て制圧し、皇道派を一掃し陸軍の統制派が政治的権力を握り軍部ファシズム体制を確立し、ますます侵略性をむき出しにするようになりました。
1937年(S12)、7月7日 盧溝橋事変。同8月上海事変を契機にさらに「中支」まで戦線を拡大し全面的な日中戦争となり、12月から翌年2月まで南京事変に進展しました。
南京事変では南京城を占領した日本軍の機関銃部隊に対して、城壁の上から城内へ射撃命令が出された時、銃座にいた兵隊が「あれは民間人じゃないか!」と問い返し、ひるんだらその場で射殺されてしまいました。時代の流れに抵抗して自分の考えを貫くことは死を意味していたのです。もはや疑問や反対をいうことは不可能でした。一方、国内では南京陥落という紙面全部を占める報道記事に歓喜して国民は戦勝の提灯行列をするようなになっていました。メディアは皇軍の戦果を宣伝し、国民の戦意高揚のために加担していました。当然この虐殺については報道管制によって国民に知らされることはなかったのです。しかし外国のプレスによってその惨状は国際的に報道されており、知らないのは日本支配下の国民だけでした。情報が遮断された国民は自分の考えを持つこともできなかったのです。戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で初めて明らかにされ天下に知れわたる事になったのです。
しかしそのような状況下でも信念をもって抵抗する人たちも確かにいたのです。1938年(S13)岩波茂雄は岩波新書発刊の辞で「ともすれば世におもねり、権力に媚びる気風」や「偏狭な思想で国策に従わせる圧力」を批判し、抵抗する知性の涵養を呼びかけました。1939年(S14)「戦争が廊下の奥に立ってゐた」という渡辺白泉の俳句は鋭く戦争の時代を切り取っていました。
日本共産党の文献によれば、治安維持法によって送検された人びとは、同法の最高刑が死刑に改悪された1928年から終戦の45年までのあいだに75000人をこえ、逮捕者は数十万人を数えました。さらに、治安維持法による弾圧と一体になっていた予防拘束や警察への拘留は、数百万人におよび、特高(特別高等警察)などの拷問によって、獄死・病死した人は判明分だけで1682人にのぼります(治安維持法国家賠償同盟の調べ)。このことは侵略戦争に反対あるいは批判的な人々が決して少数ではなかったことを示しています。治安維持法が死刑法に改悪されるなかで、戦争に反対するのは命がけのことで、科学的世界観と未来への確信がなければできないことでした。
このように大恐慌後の政治が不安定化する中で独占資本と結託した軍官僚はまず最も批判的な人たちを弾圧し虐殺し、やがて協力同調しない者もすべて監視拘束し、日本国民は全ての自由を失っていきました。戦争は人権を束縛しなければ出来なかったのです。抵抗できない者は加害者になるのを避けられなかったのです。生活苦や混乱の中で軍国ファシズムの死神は一歩一歩忍びよってきて、国民は最後には丸ごと絡めとられていったのです。その結果日本人の戦死者と戦災死は合わせて310万人に及んだのです。
7 戦後72年。国民の側ではどのように戦後を乗り越えてきたのでしょうか。戦争がもたらした加害と被害に向き合わないで、「戦争だったから仕方がなかった」というそらした見方で割り切ってしまい、自省抜きに、「自分たちは騙されていただけだ」と開き直ってしまった人が少なくないと思います。当時の新聞を見ても、国策に踊らされていた輩が一夜にして変貌して民主主義者に成りすましたのです。そしてまた時代に迎合しながら流されてきたのではないでしょうか?その結果、現在すでに戦争法も出来、共謀罪も秘密保護法も作られてしまいました。政府は憲法9条を骨抜きにして戦争の歯止めをなくしてしまおうとしています。もはや、お任せ民主主義では自由は守ることはできません。戦争体験、戦後体験そして歴史遺産から学ぶがことが今ほど必要な時はないと思います。戦没画学生の遺作を集めた無言館を支えてきた元芸術大教授の野見山暁治さんは「大きな流れに呑み込まれ、異論が封じ込められ、社会が一気に変わってしまう。それは過去の話ではない」と今を語っています。上海の師範大学で「中国慰安婦歴史博物館」の休館日を返上して、開館して、私たちを案内してくれたまだ若い大学院生たちが、「民間で歴史を正しく伝えてゆくことが平和につながる」と言っていましたが、偏狭なナショナリズムとは無縁な若い知性の輝きには元気付けられます。
「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。過去の罪を心に刻まなければ和解の道はない」というドイツのワイツゼッカーの、戦後40年に行った「荒れ野の40年」の演説を思い起こします。今回の旅行から感得した事は、中国軍民は当然被害者ですが、侵略者日本の兵隊もまた、人でなしになった戦争被害者であったという事です。戦争は全てを無意味、無価値にしてしまう、まがまがしい元凶です。そして「歴史を直視しなければ、正面から未来と向き合えることはできない」という虐殺記念館の朱成山名誉館長の言葉にも共感しました。負の歴史にもきちんと向かい合って、初めて未来を見通し、現在に対峙できるのではないでしょうか。
8 戦争の歴史は決して過去の事ではなく今につながっています。戦前と明らかに違うのは平和を守る運動が存在することです。オール沖縄の辺野古基地反対から始まり、戦争法、共謀法反対で市民と野党連合の共闘が着実に進化発展してきていることです。この力が戦争勢力を追い詰める現実的な力となってきます。しかし今一番危険なことは何でしょうか?安倍首相をはじめとした改憲勢力は世間では決して多数派ではありません。危険なのは無関心や無視という形で流されてしまっている多数派なのです。この多くの人たちを揺り動かす事が勝負だと思います。戦中から戦後にかけた私の世代は、旅行で見た事を踏まえ、戦争の破滅的な凄惨さを伝え、憲法改悪による人権抑制と戦争への道を阻止するために、周りの人々に語り続けなければならないと思います。これはもはや主義主張の違いを越えた、人間の良心が問われる問題になってきたと思います。
山梨県在住 三浦克弥