多喜二の足跡をたどる旅に参加して
小樽に行くことが本決まりになった時に、そういえば「蟹工船」がブームになったことがあったなあと思い出しました。調べてみたら平成20年(2008)のことで、なんと16年も前のことです。今から思うと信じられませんが、新潮社は2ヶ月で24万部、半年で40万部を増刷したそうです。「蟹工船」のオリジナルの方は、伏字も多かったけれど半年で3万5千部も売れたそうです。当時の読者に、この作品は80年後に半年で40万部売れるんだと言ったら爆笑されただろうと思います。あるいは、そんなことを言ってはいけないとたしなめられたかもしれません。
小林多喜二が小樽に住んでいたのは、明治40年(1907)頃から昭和5年(1930)頃までですから20年余りです。その間に学校に行き、家業を手伝い、今の小樽商大に受かるほど勉強もしました。当時は役人になりたければ北大、金融・財閥系に勤めたいなら商大と言われていたそうです。卒業して拓銀に就職した多喜二は、内心どう思っていたのでしょうか。後に、日本共産党大検挙事件を題材に書いた「一九二八年三月十五日」の中で夫やその仲間の言葉から、何気なく「マルクスは労働者の神様みたいな人なんだってね」と口にする女性を描いています。そういう人は、拓銀の行員であることを誇らしく思ったりはしなかったと思うのです。結局、幾つかの作品を発表したせいで5年後には解雇されてしまいました。そして、翌年には上京して、多喜二は二度と小樽に帰ることがありませんでした。
「赤い断層を処どころに見せている階段のように山にせり上がっている街を 僕はどんなに愛しているか分からない」と書いた多喜二が住んだ小樽を、とても丁寧に案内していただいて感謝の気持ちでいっぱいです。小樽には多喜二ゆかりの場所がたくさんありました。今は当時の面影が何もなくても、ここに住んでいたのだな、この道を歩いたのだなと思いを馳せることができました。記念碑も周辺がきちんと手入れされている様子で、大事にされているという印象が残りました。
小樽文学館では、亀井館長さんのお話の後、収蔵されている多喜二の資料を見る時間がありました。保存されている資料は、主に手紙、雑誌、新聞記事などです。そして、小樽文学館にはこれがあると有名な、千田是也が製作したデスマスクが展示されています。
ブロンズ製のデスマスクは、普段はガラスケースに入れられています。この日、私たちのグループが視覚障害者九条の会のメンバーと、その友人たちであるということで、特別にガラスケースを開けてもらえました。指でマスクに触れて、鑑賞することができたのは、短いけれど貴重な時間でした。
それから、昼食に寄ったお店も親しみの持てる、気持ちの良いサービスを提供してくださいました。また、手作りのガイドブック、バスの中・立ち寄った場所で紹介されたエピソードなど、どれも素晴らしいものでした。
ここから、今を生きる私たちが何を受けとめるか考えていこうと思います。そして、多喜二について親しみと共感を抱いて、親しい人々に話しを広げていけたらどんなに良いでしょうか。
暑い一日で、時々、集中力が途切れそうになりましたけれど、有意義な一日でした。
ありがとうございました。
北海道視覚障害者9条の会 幹事 前田晶子