「12年目の福島の旅」に参加して(2023年3月9日〜12日)
はじめに
私は、福島第1原発事故後間もない時期に何度か福島を訪れました。当時は津波で瓦礫がそのまま放置され、福島沿岸部には防潮堤もありませんでした。放射線量の高いところは帰還困難区域となり柵で覆われ、住宅街に人は誰もいない(ゴーストタウン)ため不気味で時間が止まっている感じでした。事故から12年が経過し、報道では福島の復興作業が進む一方でいまだに2万人以上が避難し福島に帰れない、福島第1原発の廃炉作業も毎日4,000人の職員が関わり敷地内では放射線量が高いためデブリの取り出し作業はロボットを使っての難作業が続きあと30年はかかるだろうとの事です。二度と原発事故を起こしてはならないはずなのに、政府は急に原発再稼働や新設を言い出し、常軌を逸しているとしか思えず、今いったい福島はどうなっているのか、百聞は一見に如かずの思いで初めてツアーに参加しました。
福島の旅ツアーの概要
3泊4日の強行スケジュールでしたが、12年経った福島第1原発の被害の現状を見、現地の方々と交流することによって復興での苦労を知り、そして何よりもなぜ原発事故が起きたのか、防げなかったのか、を考える良い機会になりました。行程としては仙台空港に着いてから、バスで相馬市を通って南の広野町まで福島東部を沿岸線に沿って南下しました。初日は相馬市の特定NPO「野馬土」(浜通り農民連の直売所)に立ち寄り、Mさんから農家の復興の苦労話を聞き、夜は相馬市沿岸にある晴風荘に泊まりました。ここで「生業を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」原告団のNさんから聞いたのは、裁判で明らかになった東電の無責任な安全対策でした。
2日目は相馬市からバス内でM先生から放射線の基礎的お話を聞きながら福島第一原発のある双葉町、大熊町に向いました。大熊町の「中間貯蔵工事情報センター」は広大な敷地であり福島県内の除染された土壌が除染袋で1千万袋が運び込まれ、保管、分別処理、浸出水処理などを行って埋め立てており、30年間置いておくとの事。原発事故さえなかったら、ここも畑や田んぼがあり人が住んでいたはずなのにと思うと空しくなりました。午後は富岡町の「東京電力廃炉資料館」を見学、さすが電力会社、と思うくらい立派な建物で現在行われている廃炉の進捗状況を知る事ができます。そして富岡町の町営博物館(2021年開館)を見学しました。
3日目は「いわき市民訴訟原告団」のKさんの案内で近隣を視察し昼は天神岬で昼食。天神岬の展望台から見える福島第1原発は海岸から海に出ているように見え(写真)、温暖化で海の水位が上がってきたら水没しそうで、だれが設計を考えたのかふと疑問に思いました。午後は宝鏡寺の碑前祭に参加し、そのあと前日のいわき市民訴訟の高裁判決の概要報告がありました。私が衝撃を受けたのは、伝言館です。宝鏡寺の入り口(写真)から石段(63段?)を登りきると田舎風の古寺と古い木造の建物(「平和」と書いてある)がありました。何の変哲のない木造の建物ですが、故早川篤雄(22年12月29日逝去)宝鏡寺住職の生き方が詰まっている所でした。福島を愛し、平和を愛して止まない早川篤雄氏の思いや願いが伝わってきます。そして2年前に境内に建立された2つの石碑「原発悔恨・伝言の碑」、「非核の火」に平和の願いが込められています(写真)。
早川さんの原発は危険だという訴えに東電や国が少しでも耳を傾けていれば、福島原発事故は起きなかったでしょう。
4日目は震災遺講の浪江町請戸小学校、地元の生業である大堀相馬焼の卿を見学、最後に日本国憲法の間接的起草者の鈴木安蔵生家に立ち寄り帰路につきました。
おわりに
今回の旅行で原発事故は起こるべくして起こった、と確信しました。原発事故を二度と起こさないためにも故早川篤雄さんの最後に残した平和への遺言をこれからの未来を担う若い人たちに伝えていく必要があると思いました。今回、他で経験できない貴重な企画に参加できました。有り難うございます。
天神岬展望台からみた福島第1原発 |
原発からソーラーパネルに置き換わり、東京に電気を送っている |
非核の火(宝鏡寺境内 2021年3月11日建立) |
宝鏡寺境内での原発被災地集会 |
細川誉至雄