矢臼別 平和盆踊りツアー
2011年8月6日から7日にかけて開催された、第47回矢臼別平和盆踊り大会に札幌からのバスツアーで参加しました。平和盆踊りは全体で約200名の参加、バスツアーには道労連、うたごえ協議会、平和委員会などから24名の参加で、御年88才国際政治学者の畑田重夫先生もツアーにご同行されました。
行きの車内では、広島へ原子爆弾が投下された8時15分に黙とうをし、続けて自己紹介やうたごえ交流、矢臼別のたたかいや沖縄基地建設反対運動のDVD視聴、畑田先生による運動論や健康の秘訣、野球談議、旅システム内山社長の絶妙なガイドなどで盛り上がりました。
車内で配られた北海道合唱団の資料によると、「矢臼別演習場は、別海町、厚岸町、浜中町にまたがる日本一広い自衛隊演習場であり、矢臼別のたたかいは、1962年、政府がそれまで続けてきた矢臼別原野の開発計画を撤回し、演習場設置のため、酪農家からの土地買い上げを強行し、八十余戸が離農を承諾する中、杉野芳夫氏、川瀬氾二氏の二人が買収を拒否して原野に止まることになり、二人を支援する輪は地元から大きく広がりました。1977年に杉野氏が離農に追い込まれた後も、川瀬氏一家は演習場のど真ん中での生活を続け、支援する様々な運動が基地反対闘争や平和運動の発展につながり、北海道のみならず、日本中の運動の前進に大きな寄与をしました。また、矢臼別平和盆踊りは、1965年、農民と労働者の共同で矢臼別平和碑が建立され、完成祝いに平和盆踊りが350人の参加で8月14日に開催され、毎年欠かさず続けられ、今では全国の平和運動の代表的な行事として全国にも知られるようになった」、別の資料によると、2009年4月川瀬氏の死後も、「川瀬さんの生き方に共鳴した、浦船三郎さんと渡辺佐知子さんが矢臼別の住人となって、川瀬さんの遺志を守り続けている」とのことです。
昼食休憩やトイレ休憩を挟みつつ約8時間の移動で着いた、川瀬牧場は演習場のど真ん中の杭と鉄線で囲われた一角にありましたが、演習場の中だということを忘れてしまうくらいほのぼのとした雰囲気でした。
夕食のバーベーキューの後、「原爆を許すまじ」の合唱で集会が始まりました。各団体、個人の挨拶や小学生がハーモニカに乗せて感動を誘うスピーチ、うたごえ交流などがステージで行われ、集会のおわりには「沖縄のたたかいに呼応し、北からの安保闘争を巻き起こそう」と題した、「安保を破棄し、軍事費を削って、被災地の復興に全力を注ぎ、大きな運動に立ち上がろう」と呼びかける宣言案を会場全体の拍手で採択しました。壮大な打ち上げ花火の後、盆踊りが行われそれぞれ思い思いの扮装で輪に加わっていました。交流会は夜遅くまで続き、会場外れの暗がりでは、ホタルが光を放っていました。
2日目は朝6時から、矢臼別の里めぐりということで、平和碑や旧川瀬宅、どんぐりの木などを、浦船三郎さんの案内で巡りました。途中の団結道路には見張りの自衛隊員3人が自動販売機のようにじっと佇んでいました。浦さんは川瀬さんが入植時の開墾で苦労したことや馬を放し飼いにしていたことなど話されていました。所々で「放っておいたら木はすぐに大きくなる」と強調していたのは、運動を継続することの重要性を示しているかのようでした。
散策から戻り朝食の後、矢臼別なんでも語ろう会で、浦さんは「何としても後継者を見つけたい」、渡辺佐知子さんは「自衛隊のヘリコプターが自宅の上空スレスレを飛び、恐ろしい思いをして抗議をした。ここで生活をしているということが彼らの中で薄れてきているのではないか」など近況が話されました。会場からも参加の感想や、50回の節目に向けて来年もたくさんの参加者を引き連れて来たいなどの意気込みが話されました。
その後、さよなら集会で団結ガンバロウを合唱し矢臼別を後にしました。
全体を通して、川瀬牧場で生活していることそのものが大変なたたかいで、そこに多くの人が惹きつけられるということと、大変だからこそ楽しく長く続けていく必要があるんだということを感じました。
帰りの車内で参加者からは「今まで、平和問題は喉元過ぎれば熱さを忘れていたが、継続して運動に関わっていきたい」といった感想が出されており、自分自身も熱さを忘れることのないよう、運動に参加し、来年以降も継続してもっと多くのひとを連れて参加したいと思いました。
北海道勤医労 佐賀正梧