「アイヌの歴史と権利を知る」ツアーに参加して
2024年は初めて福島に加え他のツアーにも参加しました。今回の二風谷・白老・登別のツアーも学びの多い旅で、二風谷は何度か訪れていますがAALA60周年の平和と人権を考える企画ということで参加しました。当初日帰りの平取訪問だけを選びましたがウポポイと銀のしずく記念館はまだ訪れたことがなく全期間参加に変更。天候に恵まれ屋外を歩くのはとても気持ちが良く和やかな良い旅となりました。
一日目、車中でAALA鈴木副理事長によるアイヌ史を概観する事前学習と平村ペンリウクの子孫でAALA会員の山下明美さんのお話で平取アイヌの歴史を学び、「平取聖公会」に到着。禁教令廃止直後の1874年英国国教会系の伝道団体CMSのデニング司祭は函館に上陸、和人に差別されたアイヌ住民と出会い強い関心を持ち2年後には平取に入りコタンの長だった平村ペンリウク宅に滞在、アイヌ語を学び宣教を開始。以来アイヌ教会としてバチェラーや、ミス・ブライアント等の宣教師が半世紀にわたりアイヌ語で礼拝や布教を行う活動拠点でした。アイヌの人々の分け隔てのない寛容な姿勢が外国人の入村や居住を受け入れたのだと思います。バチェラーが休暇の際に英国から持ち帰った鐘が入口に備えられ、鐘の音に誘われた礼拝堂で内海司祭と井澤教会役員から145年の歩みを聞きました。現在は信徒8名で教会を維持していると聞き一同から驚きの声が上がりました。
続いて、ペンリウク建立の義経神社や顕彰碑を訪ね、山下さんの説明でその人となりや当時の様子を知りました。次に、沙流川のダム建設に反対し、のちに国会議員となり「アイヌ新法」制定にも貢献した萱野茂氏の二風谷アイヌ資料館を訪問。ご子息志郎氏から平取アイヌ文化保存の源となった萱野茂氏の生涯と活動について学びました。平取に限らずアイヌ社会は国の政策や差別、優しさにつけいる和人たちによってもたらされた苦悩がないまぜになって今日があることも感じました。
二日目の白老は、まずウポポイ慰霊施設で黙祷。旧帝大等の研究目的によるアイヌ民族の収集遺骨1574体のうち返還を待つ1300余体の遺骨を収納した施設で樺太アイヌなどの収奪遺骨は対象ではないとのこと。また資料や案内板には国としての謝罪はなく遺骨等を巡る経緯や先住民族に返還する世界的な潮流に鑑みとされていました。「痛みのペンリウク」の悲しみが思い出されました。一方、博物館資料は貴重なものも多く展示も工夫されていましたが民族共生象徴空間として伝えたいテーマが曖昧で資料が十分に活かされていないと感じました。ウポポイ近くの白老観光協会の民芸品店ポンエペレでは店長が商品の作家のことも説明して下さり博物館内のショップとは一味違っていました。
最後の訪問先登別の銀のしずく記念館では副館長で知里森舎の松本徹理事長の説明を受け、原資料が数多く蒐集され充実していることに驚きました。知里幸恵の母金成ナミと伯母金成マツは宣教師バチェラーに見いだされCMSの函館アイヌ学校でローマ字を含むリテラシー教育を受け文字のないアイヌ語をローマ字で書くことを学んでいました。二人はブライアントの助手として平取に赴任、ナミは2年後退職し登別で知里高吉と結婚、マツは近文アイヌコタンの伝道所に異動します。ナミの子幸恵はマツの養女として近文でローマ字を学び、女学校を卒業し、祖母モナシウクが伝えるユカラのローマ字筆記と和訳を手がけます。これが金田一に見いだされ今日のアイヌ文化の継承に繋がっていました。館を出たあとマツと並んだ幸恵のお墓参りをしてツアーを締めくくりました。
一日目の夕食交流会のあと山下さんと同室のKさんと3人で私たちの差別意識など語り合ったことが印象に残っています。アイヌの人々の現在までの歴史を学び、アイヌの人々や文化が私たちに問いかけていることを考える機会となり理解が深まった訪問でした。個人的には所属する教派からみたキリスト教受容の歴史と併せて考えることが出来ました。企画されたAALAと旅システムの皆様、参加の皆様ありがとうございました。
平取聖公会にて |
ペンリウク顕彰碑 |
沙流川 |
知里幸恵墓所 |
札幌市厚別区 下田尊久