『中国歴史と文化の旅』に参加して 2017年12月14日〜19日
12月の南京そして上海 −深く心に沈む平和の旅−
【12月の南京へ】
2017年12月14日から19日まで、日本中国友好協会北海道支部連合会と平和と教育を考えるツアー連絡会共同企画(旅システム担当)で「中国歴史と文化の旅」(参加者17名、団長鴫谷)を行いました。
昨年は南京事件から80年の記念の年で、春から「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館」の改修が行われ、12月13日の「国家公祭儀式」をもってリニューアルオープンとなりました。この「紀念館」の見学が第一の目的だったため、北海道より遥か南の暖かい南京とはいえ旅の既設としてはふさわしくない日取りになったのでした。
私はこの季節の南京を知ることに秘かな期待を持ちました。謀略にとって始まった第2次上海事変の終結とともに、現地軍の独断専行によって命令された300キロ離れた南京への追撃戦です。南京の冬はどうだったのか。兵士たちはどんな気持ちでそこを進んだのか。
私はこの時、遥か離れた岡山県の田舎町で1歳9ヵ月でした。
【進化する紀念館の理念】
私は3回この紀念館に行きました。
最初はまだ規模も小さく、展示もすっきりしたものではありませんでしたが、日本軍の残虐非道の数々の事実を突き付けられて、うちのめされた気持ちで逃げるように出てきました。日本人はこんな酷いことができる国民なのか。
2回目は敷地も建物も何倍も大きくなり、展示の技術もすばらしい紀念館に生まれ変わっていました。広い芝生の構内の入口は、バスを降りてからかなり距離があり、柵沿いに進む通路の右側に十数体のブロンズ像がありました。それをひとつひとつ確かめながら進んで、最後の一体を見たとき、ハッと胸を突かれて思わず涙が溢れました。
倒れている小さなこどもに痩せ衰えた老人が今にも倒れそうに手を差し伸べています。こどもは老人の孫だと思いました。攻め込んできた日本軍に殺された孫を探しあるいて、やっと見付けて、まだ抱き取ることもできない老人の悲しみ。
私にも可愛い盛りの孫がいたので、その悲しみが胸いっぱいに広がりました。「老人とこどもの像」が象徴する「この紀念館の理念」ということを考え続けてきました。老人にとって孫は「未来」そのものです。孫を殺されるというのは未来を失うということではないのか。人類が未来を失うということではないのか。
帰国して読んだ12月14日の赤旗で笠原十九司さんが次のように語っています。
「中国の研究者たちは、事件を人類史の立場でとらえ、教訓とし、いかに克服していくかを考える段階に入っています」
【日本国有権者の課題】
「南京利済巷慰安所旧跡陳列館」と「中国『慰安婦』歴史博物館」はごく最近開館した施設です。私はこれほどのものが南京と上海にできているとは全く知りませんでした。南京では元の慰安所を復旧して陳列館としています。上海の歴史博物館は驚くべきことに上海師範大学の研究室の中に作られています。
展示には中国語・英語・日本語の詳しい説明がついています。日本語は正確で違和感なく日本人の見学を大歓迎するかのようです。展示内容は長期にわたる綿密な調査研究に基づく実証的なもので充実していますが、特に驚いたの「慰安所」の歴史を江戸時代の「遊郭」−公娼制度までさかのぼって始めていることです。問われているのは日本という国が内包する「女性の人権蹂躙」の歴史です。日本の公娼制度が廃止されたのは戦後のことで、実質的には、昭和三十一年の「売春防止法」を待たなければなりません。
こうしてみると、日本軍「慰安婦」問題は私たち日本国有権者の人権意識が問われる問題だと考えるべきでしょう。
【呉先斌館長と太祖朱元璋】
「南京民間抗日戦争博物館」は日本からも提供された資料が所せましと並べられて日中民間交流の展示です。呉館長は戦争の被害者は民間だから民間博物館だと強調しました。長江を望む閲江楼には明朝時代皇帝の肖像画が並び、太祖朱元璋は団長そっくりでした。
南京は見所多い美しい都。直行便でまたいきたいと思っています。
鴫谷節夫