《炭鉱の歴史と夕張の今を訪ねる旅》に参加して 2011年10月30日
今年は北炭夕張新炭鉱事故から30年目に当たります。1981年10月16日、坑内にメタンガスが突出して爆発事故がおき、93人の犠牲者を出しました。爆発の激しさに救出作業が進まず、最後には59人を坑内に残したまま消火のために注水するという悲惨な結果になりました。
炭鉱事故の3年後「大災害三周年集会」が夕張であり、札幌支部も参加し、そこで生産優先、人命軽視、過酷な労働実態などの悲惨な状況を聞き、怒りを燃え立たせたことを思い出します。
10月30日、札幌支部から8名、多団体から13名、旅システムから3名の計24名で横3列の豪華バスで出発しました。当時、炭鉱の支柱員をしていた安部秀一さん(73歳)が途中から同乗、かつての炭鉱坑口跡、石炭博物館、炭鉱生活館を案内してもらいながら回りました。実際に災害を経験し、多くの仲間を失い、一歩違えば自分も・・・と言う経験の中で説明してくださる阿部さんの気持ちは、私たちが思う以上のつらさ、悲しさがあるのではないでしょうか。
昼食には夕張鹿鳴館で鹿肉を使ったハンバーグをいただきながら、夕張の日本共産党市議、熊谷桂子さんと、ツアーに同行していただいた日本共産党元衆議院議員、児玉健次さんからお話を聞きました。熊谷市議は財政破綻した経過から今日までの様子を、児玉先生は災害の起こる3カ月前に坑内に入り、北炭に労働環境の改善を要求したこと、国会石炭対策委員会の中で「近い将来に石炭が必要なときが来る、そのときのために思い切った石炭政策を行うべき」と発言したこと・・・などを話していただきました。
そのあと、朝鮮人労働者を追悼する『神霊之墓』に参り、最後に災害が起きた新炭鉱の坑口とその横にある慰霊碑を訪れて参加者全員で黙祷をささげました。慰霊碑には正面に正社員の名前、側面に下請け労働者の名前が別々に刻まれていて、このようなところにも差別の実態を見ることができました。
30年前のこの事故の様子を聞きながら、3・11福島原発事故が重なって見えました。大企業の利益優先・人命軽視・行政の言いなり・ニセの安全対策・補助金と言う地元にとっての甘いアメ・・・。30年前に小さな町で起きた大きな災害、そしてその教訓が生かされず今、小さな国で最も大きな災害は起こったのです。これは決して想定外の事故ではなく人為的な大災害なのです。熊谷市議がいみじくも言いました。「夕張の人はいい人ばかりです。自分たちができることはするといいます。でもそれが要求につながらないのです・・・。」と!私もそうでした。でも今、声を上げていかなければなりません。「絶対 原発をなくする!」
婦人民主クラブ札幌支部事務局長 岡本美恵子