戦後76年を考える旅に参加して(2021/11/20〜21)
この旅行に参加するきっかけは友人からの紹介でした。私の仕事は、教員です。以前、その友人と「劉連仁さん」のことを扱った授業を行いました。その友人が「あなたなら興味があると思って」と、旅行を紹介してくれたのです。行く前に、訪問先を見ると、増毛や留萌、沼田、月形、当別などでした。それらは今まで私が、仕事や観光で何度も訪れたことがあるところばかりです。しかし、旅行スケジュールを読むと、その町村について、私がまだ知らないことが書いてありました。何度も訪れていても、知らないことがたくさんあることがわかりました。私は、この旅行での発見を楽しみに参加しました。
バスの中で、留萌沖の三艘の船の遭難の話を聞かされました。終戦後、間もなく、樺太の大泊からの引き上げ者を乗せた三艘の船が国籍不明の潜水艦に攻撃されて、増毛の沖で沈んでいった事件でした。実際に、遭難者が救助された浜や避難した港を訪問し、戦後、海中から発見された遺品を資料館で見学しました。その被害は甚大なものであったことがわかりました。この船の遭難の事件については、聞いたことはありましたが、詳細を知りませんでした。旅行の資料として「留萌沖三船遭難」〜終戦秘話〜」が渡されました。事件の風化を心配して、留萌教育員会が令和2年に作成したものだそうです。この資料が、事件を知るのにとても役立ちました。北海道にはたくさんの戦争についてのエピソードがあるのに、忘れ去られていくことが残念です。三艘の船の慰霊の碑を訪れて、私の学んだことを次の世代に伝えていかなくてはならないと思いました。
次に「劉連仁さん」について、関係する場所を訪問しました。「劉連仁さん」とは、戦争が終わったことも知らされずに13年間も北海道中を逃亡した中国人です。彼がどこに連行されどのように逃亡したか具体的な地名やコースの詳細を、私は知りませんでした。この旅行で、連仁さんが、実際に連行された恵比島駅や働かされた昭和炭鉱跡を訪れました。恵比島駅は今でも山奥で、この駅に降り立った連仁さんはどのような気持ちだったろうと考えました。「中国へ帰ろう」の一心でひたすら北へ逃亡し、稚内から海が見えたとき、中国と地続きでないことがわかったときの彼の気持ちを考えました。
当別にある劉連仁さんが捕まった記念碑のそばは、何回も車で通っていました。劉連仁さんの生還記念碑あることを、まったく知らないまま通り過ぎていました。記念碑を見学して、ここで彼が逃亡生活にやっとピリオドを打つことができたわかりほっとしました。「本当に大変な思いをさせてしまった。お疲れ様」と言ってあげたくなりました。私は、北見市でも劉連仁さんの逃亡跡を見学したことを思い出しました。逃亡生活について、もっと詳しく知りたくなりました。
月形では、月形樺戸博物館を見学しました。10年以上前に見学したことはありましたが、展示内容が一新されていて、新鮮に感じました。石狩川を渡す橋を建設したジオラマを見ていると、当時の囚人の過酷な状況がわかりました。道路や橋を完成してくれたことに感謝です。また、三笠と月形を結ぶ道路が、現在でも道道として使われていることがわかりました。今後、峰延経由で三笠へ行くときは、囚人の皆さんに感謝しなくてはならないと思います。北海道の歴史に囚人の労働力が大いに使われたいたことがわかりました。
旅行で泊まった「幌新温泉」も大浴場が広くて、ゆったり温泉を楽しむことができました。
露天風呂の電気風呂では、腰痛の治療もできました。お料理も満足でした。
この旅行のテーマは「土地に歴史がある」です。いつも、何気なく車を運転して通り過ぎている石碑や建物には、歴史やエピソードがあります。その歴史は伝えていかなくてはならないものだと思います。北海道の他の土地にもさまざまな歴史があります。私の故郷にも戦争にまつわる事件があったことを思い出しました。私たちがその歴史を語れる最後の世代かもしれません。それを伝えていくことの大切さも考えさせられた旅行でした。
土地には歴史があります。これを機会に、北海道の戦争の歴史を掘り起こして、たずねてみたいと思いました。
H・M